校長のおはなし

校長のおはなし

平成24年5月

 ゴールデンウィークが終わりました。
 休み中は、宿題にしっかりと取り組んだことと思いますが、宿題だけでなく、部活を頑張った人、これまでの復習やこれからの予習に取り組んだ人もいると思います。
 ただ、それでも大型連休というのは気がゆるみがちになります。4月は、新入生はもちろん、上級生も新しいクラス、新しい先生と、3月までとは環境が変わって、緊張感を保ちながらの生活であったと思います。それだけに、あともう少し頑張ればゴールデンウィークだと、気をゆるめられると、心待ちにして連休を迎えた人は多かったのではないかと思います。
 しかし、ゴールデンウィークは終わりました。「メリハリ(減り張り)」という言葉がありますが、「メリ」の「メ」は「減少」の「減」、「減る」という字、「ハリ」の「ハ」は「張力」の「張」、「弦を張る」の「張る」という字を書きます。ゴールデンウィークで気持ちをゆるめたのなら、「減り」の状態をいつまでも続けけるのではなく、気持ちの糸を「張り」直す必要があります。ここで一度、自分を律した生活の「形」を調え直してください。人間は、自分の行動を自分で決められます。頑張れば達成可能な身近な目標を各自明確に定め、自分を高めるための行動へとつなげてほしいと思います。

 さて、再来週の月曜日、5月21日は、君たちも知っているとおり、日食があります。日食は、新月のときに、太陽、月、地球が一直線上に並ぶことで起こります。ただし、新月になるのは29.5日ごとですが、地球の公転軌道面に対して、月の公転軌道面が約5゜傾いているので、新月のたびに日食が起こるわけではありません。全世界で見れば、年に3回前後の頻度で観測されますが、日本に限定すれば、数年に一度という頻度になります。私は、3年前に黒姫サマースクールの引率中、今の5年生と一緒に見ることができましたが、部分日食でした。このときは、屋久島などで皆既日食が観測されていますが、今回は地球と月との距離の関係で、太陽の縁がリング状に見える金環日食が首都圏で見られるということです。金環日食が日本で観測されたのは、前回が25年前(1987年9月23日)の沖縄、次回、観測されるのは18年後(2030年6月1日)の北海道だということです。さらに、首都圏に限れば、前回は173年前(1839年9月8日)、次回は300年後(2312年4月8日)ということになります。したがって、天候に恵まれれば、天文観測が趣味だという人でない限り、一生に一度観測できるかどうかという現象です。

 学園では、理科の先生方が、1,2年生の希望者を対象に、観察会を企画してくださいました。ただし、金環日食になるのは午前7時半頃であり、この時間、校庭では、校舎に遮られて観察はできません。そこで、会場を放光館の屋上としましたが、そうすると50名が限度です。しかしながら、申し込み初日に約200名の申し込みがありました。この内、150名は観察会に参加できなくなってしまいます。また、上級生でも観察したいという生徒は多いと思いますが、7時半は登校途中の時間帯でもあります。したがって、観察会に参加できない多くの1,2,年生、また上級生も日食を観察してから登校できるように、5月21日は、いつもより1時間遅い9時半始業ということにいたします。

 ただし、くれぐれも、安全な場所で、安全な方法で観察をしてほしいと思います。
 たとえば、肉眼はもちろん、サングラスや下敷きなどを使用しての観察は危険です。これらは充分に光を弱めることができません。たとえ充分に光が弱まっているように見えても、太陽光線には目で見てわかる可視光線だけなく、目には見えない紫外線や赤外線も含まれています。適切な方法で観察しないと、日食網膜症になり、ときには永続的に視力が低下したままになってしまう可能性もあります。必ず、市販されている日食グラスを使うようにしてください。
 また、観察の場所も、車通りのある道路などでは危険です。公園など、安全に観察できる場所を自宅近辺で探しておいてください。

 もう一つ、君たちに望むのは、ただ観察するだけでなく、日食のしくみや、部分日食、皆既日食、金環日食の違いを理解して観察してほしいということです。
 科学技術は、それを使う人間次第です。したがって、我々はそれらを使うことによる地球や社会への影響を知っておく必要があります。しくみを理解することはその一助となります。科学者や技術者のようには理解できなくても、科学技術を使う我々もそのしくみの理解につとめることは大切なことです。それには、日頃から「なぜ?」、「どうして?」という新鮮な疑問をもつことです。日食は自然現象ではありますが、よい練習機会になると思います。ぜひ、人に説明できるほどに理解をして、観察に臨んでほしいと思っています。(朝礼でのお話から)


平成24年4月

先日、入学式を行い、中学校に226名、高等学校に42名の新入生を迎えましたが、本日、初めて全学年が揃い、本格的に平成24年度がスタートいたします。

年度の初めにあたり、君たちに話しておきたいことは、君たちが目指すべき人間像のことです。承知のとおり、世田谷学園には“Think&Share”-『天上天下唯我独尊』という教育理念、「明日をみつめて、今をひたすらに」、「違いを認め合って、思いやりの心を」という2つのモットーがあります。では、それらのもとで、君たちはどのような人間像を目指せばよいのか。

それは、

①立心にあふれ、知性をたかめていく人。

②喜びを 多くの人とわかちあえる人。

③地球的視野に立って、積極的に行動する人。

の3つです。校歌に「修めよ学べ 我等が智と徳」、「鍛えよ磨け 我等が身と魂」とありますが、今挙げた、1つ目の「自立心にあふれ、知性をたかめていく人」は「智」、2つ目の「喜びを多くの人とわかちあえる人」は「徳」、3つ目の「地球的視野に立って、積極的に行動する人」は「身と魂」にそれぞれ関係しています。つまり、智と徳を修め学び、身と魂を鍛え磨き続ける、常に現在進行形でそれができる人、言い換えれば、「賢く、豊かで、たくましい人」を、君たちは目指してほしい。新入生諸君には入学式でも話しましたが、これを「世田谷健児」と言います。同時にそういう人であればこそ、頭を上げ、胸を張り、大地を踏みしめて堂々と闊歩することができる、すなわち「旃檀林の獅子児」と言えるのです。

ただし、そのためには、自分自身を律して、我にとらわれたり、安きに流れたりしないようにしていかなければなりません。世田谷学園の教育の特徴の一つに、「形」から入って「心」を究めるということがあります。坐禅は、まず姿勢を調える、次に呼吸を調える、するとそれにつれて心も調ってくる。君たちの生徒手帳の1ページ目に「七仏通誡の偈」が書かれていますが、その1行目に、「諸の悪は作すこと莫く」とあります。永平寺をお開きになった道元禅師は、「悪いことをしないようにしていると、悪いことをしそうな場所に住んだり、悪いことをなすような人と接していたりしても、悪いことをなすことは決してなく、しようと思ってもできなくなる」とおっしゃっています。「悪いことをしない」という形をつくることが、「どんなことがあっても悪いことをできない」心をつくっていくのです。自分を律して「形」をつくることが、どんなときでもあたり前のごとく自分を律することのできる「心」をつくるのです。だから、まず「形」をつくるということが大切になってきます。

君たちがつくるべき「形」にはいろいろなものがありますが、今日はその基本となるものを4つ挙げておきます。君たちに配布する『学園生活のてびき』にも「生徒の実践目標」として書いてあることですが、それは、「挨拶の励行」、「正しい服装」、「10分前登校」、「清掃整頓」です。ただし、この4つを、言葉の表面の意味だけでとらえないでください。

例えば「挨拶の励行」ですが、「挨拶」は人間関係の基本であって、そこからお互いを尊重し合う心も生まれます。君たち同士やと先生方とかわす、朝一番の「おはようございます」、下校するときの「さようなら」・・・、あるいは校内でお客様とすれ違うときの「こんにちは」等々、「挨拶の励行」はもちろんこうしたことを指しますが、しかしそれだけでなく、「校門での礼」を心をこめてきちんとするということも含んでいます。

「正しい服装」や「10分前登校」には、頭髪のことやその他の決められた時間を守るということなども関係しています。「清掃整頓」は、当然のことですが、清掃の時間のことだけを言っているわけではありません。

そのように、4つの「形」、「実践目標」を応用的にとらえてください。

「世田谷健児」、「旃檀林の獅子児」は、我にとらわれたり、安きに流れたりしません。君たちは、今挙げた4つを基本として、いろいろな場面で自分自身を律して、そのためための「形」をつくってください。そして、「心」を究めてください。(始業式でのお話から)


平成24年3月

卒業生諸君、ご卒業おめでとうございます。いよいよ世田谷学園の最後の儀式を迎え、6年間、あるいは3年間を振り返り、感慨あふれるものがあるのではないかと思います。保護者の皆様におかれましても、ご子息が成長することの喜びと同時に思春期という多感な時期、それぞれに不安やご苦労もおありだったかと存じますが、晴れて本日の門出を迎えられましたことを心よりお喜び申し上げます。

 

 一貫生の諸君が入学したのは平成18年、この年、サッカーの日本代表監督を務められた岡田武史氏のご講演がありました。「遺伝子のスイッチが入れば、人間は本当は強いんだ」と熱く語られたことを諸君も覚えているのではないでしょうか。翌年、平成19年には、名誉校長・林秀穎先生の長年の夢でもあったダライ・ラマ法王第14世の特別講演がありました。法王は、21世紀を担う諸君に「優しさにあふれ、思いやりのある人間になることに関心をもち、それを高めていく努力をしなさい」とメッセージを送ってくださいました。法王は平成22年にも2回目のご講演をしてくださいましたので、ここにいるすべての卒業生諸君が法王のお話を拝聴したことになります。

 高入生の諸君が入学した平成21年は、入学直前の3月に空手道部が春の全国選抜大会で、団体形、組み手、個人形、組み手、すべての種目において優勝、完全制覇を成し遂げた年でした。史上初の快挙に沸き立つ中で諸君は入学したわけです。以来、諸君はそれぞれの部活で「明日をみつめて、今をひたすらに」練習に、稽古に打ち込みました。そして、その中で空手道部は昨年のインターハイで、見事3年ぶりとなる優勝を果たし、個人では鳴島君が準優勝、その結果、学校対抗で総合優勝という素晴らしい成績を収めました。このインターハイでは、水泳部の川島君も200m平泳ぎで3位と活躍をしてくれました。

 

 入学してからの6年間、あるいは3年間、日々の学園生活、また様々な行事の中で、楽しかったこともあれば、つらかったこと、悔しかったこともあったと思います。

 諸君が4年生のときには、新型インフルエンザが流行し、永平寺・京都研修旅行、獅子児祭などが中止になりました。このときの獅子児祭は、当時最も中心となっていた諸君の一つ上の先輩たちにとって最後の獅子児祭であり、彼らは涙を流して悔しがっていました。しかし翌年、諸君が中心となって先輩の思いを受け継ぎ、獅子児の気概溢れる素晴らしい獅子児祭をつくりあげてくれました。多くの苦難があったと思います。しかし、それらを乗り越えてやり遂げたときの達成感がどれだけ価値のあるものなのかは、獅子児祭が終わったときに泣き崩れていた実行委員の姿にすべて表れています。私は、悔し涙を流していた諸君の先輩たちと泣き崩れていた諸君の仲間の姿を、きっと忘れることはないと思います。

 

 世田谷学園には、“Think&Share『天上天下唯我独尊』という教育理念、すなわち仏教・禅の、「人は一人一人が尊い存在であり、だれもがりっぱな人間になることのできる力をもっている」という人間観、「人は固有の価値観や文化を持っており、それをお互いが理解し認め合うことで、平和な地球社会の創造が可能となる」という社会観・世界観があります。そして人間観を表す“Think”のモットー「明日をみつめて、今をひたすらに」、社会観・世界観を表す“Share”のモットー「違いを認め合って、思いやりの心を」があります。諸君は、この理念とモットーのもと、旃檀林の獅子児からりっぱな獅子へと成長しました。そして今日、「卒業」というステップを踏んで、新しいステージへと自らを進めます。

 現在、社会は混沌としているかもしれません。昨年311日の東日本大震災では、多くの尊い命が失われました。学園では、昨年49日に一ヶ月、先月27日には一周忌の法要を営みましたが、被災地では、傷を負いながら、拭いきれない不安の中を、しかし、大勢の方が懸命に生きていらっしゃいます。

 世界に目を移せば、紛争、弾圧、あるいは欧州危機、原油の高騰、等々、人間の行動に起因するさまざまな問題があります。どれも決して単純ではありません。しかし、人間は人智を超えた天災による甚大な被害さえも懸命に乗り越えようとします。ましてや人間の起こした問題は必ず解決できる、乗り越えられない壁はない、諸君はそのことを信じてほしい。そしてそれらを乗り越えるための理念こそ、諸君が世田谷学園で学んだ“Think&Share『天上天下唯我独尊』であり、この言葉に象徴される人間観、社会観・世界観に他なりません。

 

 君たち自身も、もし壁にあたって思い悩むことがあったなら、この原点に立ち返ってください。自分のとるべき道が見えてくるはずです。私は創立記念式典のときに、学園の2つのモットーは決して別々のものではない、諸君が目指すべき「明日」は、我欲に満ちた、自己中心的な「明日」ではなく、「違いを認め合って、思いやりの心を」もった「明日」なんだ、と言いました。そこに、林秀穎先生が常々おっしゃっていた「志」が生まれます。「志」とは二度とないこの人生をいかに生きたら、自らのもつ価値を光り輝かすことができるか、そしてその光で周囲を照らすことができるか、ということだと私は思います。

 だから卒業生諸君、顔を上げなさい。胸を張りなさい。そして、暗闇を嘆くのではなく、自ら一燈をともす、その光でまず自分の周囲を照らす。

 諸君がそれぞれともす一燈によって、やがて社会が明るく彩られることを心から祈念いたしまして、卒業の式辞といたします。

 

 本日は、本当におめでとうございます。(高校卒業式の式辞より)


平成24年2月

 涅槃会とは、古来215日とされているお釈迦様の命日、亡くなられた日の法要です。お釈迦様は35歳のときに、菩提樹の下で成道、悟りを開かれましたが、それを自らのものだけにとどめず、「多くの人々の利益と幸福のために」法を説く決意をされて、幾度となく伝道の旅をなさっています。そして「人生はいかにあるか」を正しく知ること、そこから「人間はいかにあるべきか」という理想を見出して、その理想に向かって進んでいくことを教え説くことに力を注がれました。

 最後の旅は、成道から45年、80歳のときです。老齢のお釈迦様はおそらくやっと動けるほどの身体であり、自らの死期が近いことを感じていたかもしれません。しかしそれでも、マガダ(摩掲陀)国のラージャガハ(王舎城)という都を発ち、北方へと向かいます。ところが経典によると、旅の途中で受けた供養の食事のあと、お釈迦様はにわかに病を得て、腹痛に苦しみます。クシナガラ(拘那須竭)という村にたどり着いたときには、もはや動けなくなってしまいました。沙羅双樹の樹の下に横たわったお釈迦様は、やがて見守るお弟子さんたちに「放逸なること(怠けること)なくして精進するがよい」という最後の言葉を残して、永遠の静寂の中へ旅立たれたと伝えられています。

 

 これを「涅槃」と言いますが、「涅槃」とは、古代インドの言語であるサンスクリッド語の“nirvana(ニルヴァーナ)”という言葉を中国で漢字に音写して(音を写して)できた言葉です。「涅槃」は一般にお釈迦様が亡くなったことという意味で使われてはいますが、本来、その語源の“nirvana”は、「火を吹き消す」という意味をもっています。

 お釈迦様は、人間の生活を「すべては燃えている」と表現されています。燃えさかる炎、それを「煩悩」と言います。“nirvana”、「涅槃」とは、その煩悩の炎を鎮めて消し去ることを言います。

 お釈迦様は煩悩を「貪・瞋・癡」という3つの根本煩悩に整理なさっています。これを三毒とか、三大煩悩と言います。貪はむさぼりの心、行きすぎた欲望、自己中心的な欲望です。瞋はいかりの心、癡はおろかさを表します。人は兎角、あれがほしい、これがほしいとむさぼったり、それが手に入らなければいかったりする。そのために道理にかなわないおろかなことをしてしまうこともある。そこに「苦しみ」が生じます。

 この「苦しみ」の原因となっている煩悩の炎を消し去ってしまえば、心は平安を得られます。その状態を「涅槃」と言うわけですが、すなわちこれは悟りの状態です。ではなぜ、お釈迦様はすでに35歳で悟りを開いていたのに、80歳で亡くなったときを涅槃と言うのか。これをお釈迦様は「第一の矢」、「第二の矢」のたとえで教えてくださっています。

 

 お釈迦様も我々と同じく「人」であって、感覚、感情をもっています。暑い、寒い、あるいは痛いと感ずることはもちろんあるし、美しい花を見れば「美しい」、赤ちゃんをみれば「かわいい」と思う。誰かが亡くなれば「悲しい」とも思う。これを「第一の矢」と言います。悟りを開いた人もそうでない人も、この「第一の矢」は受ける。しかし、悟りを開いた人は、そのあとの「第二の矢」を受けることがない。

 では、「第二の矢」とは何か。それは、たとえば、美しいと思った花を独り占めしようとする、人とぶつかって痛いと腹を立てる、といったようなことです。感情に振り回されて、貪瞋癡の三毒のはたらきが活発になってしまっている状態です。

 お釈迦様は、35歳のときに悟りを開いて、この「第二の矢」を受けることがなくなった。そして、80歳で亡くなって、「第一の矢」を受けることもなくなった。これを「完全な涅槃」、「大般涅槃(だいはつねはん)」とも言いますが、単に涅槃と言えば、お釈迦様のように悟った方々の完全な涅槃を指すようにもなったわけです。

 

 さて、一昨年のダライ・ラマ法王の特別講演は2年生以上の人には記憶に新しいと思いますが、そのときにある生徒が、「生きていくうえで欲望はすべて断ち切るべきなのですか」という質問を法王にしました。欲望は三毒の第一に挙げられている貪、むさぼりの心につながるものです。このとき法王はこうお答えになりました。

 「欲望には二つの種類がある。一つ目は、より執着の心と関連をもつ意味での欲望。これはたくさんの問題を引き起こすものなので、なくすべきだ。二つ目は、分析や調査をする、あるいは世界平和を望んだり悟りを得たいという欲望。これは欲望を果たすということの正当性があるので、益々高めていく必要がある」

 

 法王のおっしゃる一つ目の欲望は、いわゆる我欲、自己中心的な欲望のことです。では、自分さえよければ他はどうでもよいと、我を押し通そうとすればどうなるか。人とぶつかる。すると相手が悪いと思う。いかる。暴言を吐き相手を傷つけて自分の感情だけを満足させようとする。そういう貪瞋癡の負の連鎖が始まってしまう。言わば「第二の矢」を連射されてそれを全身で受けるようなものです。そして、思い通りにならなければ苦しむ。これが法王のおっしゃるたくさんの問題です。たとえ思い通りになったとしても、それが本当の心の満足だとは思えません。確かに自分はかわいい。しかし、これは自分を大切にすることとは違います。

 

 自分を大切にするというのは、法王のおっしゃる二つ目の欲望を高めることです。君たちには、学業や部活動をとおして自分を高めようとしてほしいと思いますが、その高めた自分をどう生かすかが重要です。自分をどう生かすか、今はまだそれがわからないかもしれない。しかし、そういう生き方を求める姿勢は大切にしてほしい。それは、普段の生活の中で、自己中心にとらわれるのではなく、相手の立場に立って考え行動する、違いを認め合い思いやりの心をもって行動する、その実践から始まります。

 そして、その日常の実践の中で、自分を大切にすることと他者を大切にすることがイコールであるということを感じられるようになってほしい。涅槃会にちなんで、そう思います。

                  (涅槃絵でのお話から)

 

 

 

 


平成24年1月

 平成24年、明けましておめでとうございます。

 

 Ⅱ期の始業のときに、学期の変わり目のような節目というのは、それまでの自分を振り返る、目標に向かう自分自身の心構えの総磨き直しをする、その絶好のチャンスなんだという話をしました。

 年のあらたまったこの正月もまた、大きな節目です。目標そのものを設定し直すほどの大きな節目です。しかも世の中全体がそんなムードになる。いわば時の流れや環境の方から君たちにプレゼントしてくれる絶好の大チャンスです。このプレゼントを開けない手はありません。

 

 この正月、初詣に行った人も多いと思います。私の家の近くにも神社があります。特に元旦は長蛇の列です。皆さんお賽銭を入れて願い事をしています。

 これから新しい1年が始まるわけですから、この1年の幸せを祈願したり、その他諸々の願い事をしたりしたくなるのは当然です。愛すべき日本の習慣、文化だと思います。ただ、願い事をするときに、自分の力だけではどうしようもないからということを前提にしていることがあります。例えば、景気がよくなりますように、あるいは今年こそ素敵な人とめぐり逢えますように、などなど世の中全体に関わったり、偶然の要素が必要だったりすることがあります。だからこそ、祈り、願うわけですが、世田谷学園の生徒である君たちにはそこからもう一歩進めてほしい。

 

 まず、平成24年のスタートにあたって願いを起こす。もちろん、すでに願いを起こしている人もいると思います。しかしながら、願いには、自分の意志の範囲にあるものと、そうでないものとがあります。そこで大切になってくるのは、意志の範囲にないことにとらわれるのではなく、意志の範囲にあることに心を向けるということです。言い換えれば、「こうあってほしい」という願いよりも「こうありたい」という願いに心を向ける。

 

 例えば、暮れの話にはなってしまいますが、Ⅱ期中間試験で平均75点以上の成績良好者になることを目標にしていた人もいると思います。そのために自分のなすべきことは、どんな問題が出ても大丈夫だぐらいに試験範囲の学習をしっかりしておくことです。それが君たちの意志の範囲にあることです。苦手な部分があれば、そこから出題されないでほしいと思いますが、それは先生の決めることであって、君たちがそれにとらわれても詮ないことです。

 6年生は、いよいよ大学入試です。この週末にはセンター試験があります。どんな試験も、試験が終わってしまえば、その結果の如何はもはや君たちの意志の範囲ではなくなります。天命を待つしかない。しかし、試験の前まではもちろん、試験終了の合図があるまでは、君たちの意志の範囲にあります。

 

 願い事をするのはいい。しかし、ただ漫然と願い事をするのではなく、意志の範囲にあること、自分は何をなすのかということに心を向ける。一度、君たちの願いの中で、自分の意志の範囲にあるものは何なのか、あるいは意志の範囲にある願いを起こしているかどうかを点検してみてください。そして、自分の意志の範囲にあることは、ああだこうだと言い訳をせずにただひたすらにやる。なりきってやる。

 

 新年、正月という大きな節目、この大チャンスの入ったプレゼントを開けない手はありません。それを開けるか開けないか、それもまた、君たち一人ひとりの意志の範囲にあります。

 君たち一人ひとりが自らの意志の力を発揮してほしいと思います。

 そして6年生諸君は、ぜひ意志の力を発揮して、思う存分戦ってきてください。

                     (朝礼でのお話から)

 


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