令和5年12月

ただ今、お釈迦様のお悟りを記念する成道会の法要を営みました。法要に先立って、先ほど、臘八摂心も無事終了しました。4年ぶりとなる、毎朝誰でも坐れる本来の形の臘八摂心を、生徒諸君や先生方とともに修行できたことを嬉しく思っています。

さて、お釈迦様は、今から約2500年前、ヒマラヤ山脈の南、現在のネパールとインドとの国境付近にカピラ国という小さな国を建てていた釈迦族の王子としてお生まれになりました。宮殿には池があって美しい蓮の花が浮かび、部屋には栴檀香のかぐわしい香りがただよい、着物はすべて最上の布でできていました。しかし、感受性の強いお釈迦様は、成長するにつれて考え込むようになります。その胸の内を、経典はこう伝えています。
「私は、そのような生活の中にあって、ふと思った。愚かな者は、自分も老いる身であり、老いることを免れ得ないのに、他の人の老いたるを見ては、おのれを忘れて厭いきらう。考えてみると、私も老いる身である。老いを免れる術はない。それなのに、他の人の老い衰えたるを見て厭いきらうというのは、相応しいことではないはずである。そのようにおもったとき、私の青春の驕りはことごとく断たれてしまった。」
お釈迦様は、病や死についても同じように思いを巡らせます。人生の無常や苦しみに対する不安やおそれは、若き日のお釈迦様にとって解決すべき大問題となっていました。

29歳のある日、とうとうお釈迦様は、物質的に恵まれた生活の一切を捨てて出家をします。

当時のインドには、2つの修行法がありました。一つは、坐禅瞑想によって精神を統一する禅定、もう一つは苦行です。
お釈迦様はまず、有名な仙人のもとで禅定を学びます。ほどなくして仙人と同じレベルに達しますが、禅定中は安らかな境地になれても、禅定を離れるともとに戻ってしまって、苦悩の解決には至りません。それは、別の仙人のもとでも同じでした。
そこで、次に苦行に身を投じます。苦行とは、肉体は悪しきものの宿るところで、肉体の力を弱めることで精神によりよき活動力が与えられるというものです。お釈迦様は6年に渡って誰よりも壮絶な苦行を試みました。しかし、意識が朦朧とするだけで心の平安には至りません。わかったのは、苦行は出家前の享楽的な生活のもう一方の極端にしかすぎないということでした。
苦行をやめる決意をしたお釈迦様は、河の流れに身をきよめ、村の娘スジャータから乳糜(にゅうび=乳粥)の供養を受けて体力を回復すると、一本のピッパラ樹(菩提樹)の下で結跏趺坐(けっかふざ)の坐禅に入ります。そして8日目の早朝、明けの明星が輝くのを見て、ついに成道、悟りを開かれました。それがろう臘げつ月、つまり12月の8日とされています。

お釈迦様が悟られたのは「縁起の理法」であり、その教えは「十二因縁」、「四諦八正道」など様々に示されていますが、今日は、お釈迦様がついに成道に至った、その喜びが表されているある言葉を紹介したいと思います。
それは、先ほどお唱えした「般若心経」の最後に出てくる「ぎやー羯てい諦ぎやー羯てい諦(ぎゃーていぎゃーてい)。はー波らー羅ぎやー羯てい諦(はーらーぎゃーてい)。は波ら羅そう僧ぎやー羯てい諦(はらそうぎゃーてい)。ぼー菩じー提そ薩わ婆かー訶(ぼーじーそわかー)。」という言葉です。これは、サンスクリッド語の「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディスヴァーハ」という言葉に漢字を当てたものです。「ガテー ガテー パーラガテー」とは、「往きました、往きました、正しく越えて往きました」ということで、どこへ往ったのかと言えば、それは彼岸、つまり苦しみのない悟りの世界です。「パーラサンガテー」は「あまねく一切のものとともに、正しく、明確に越えました」、「ボーディスヴァーハ」は「かくして悟りは完成しました」という意味です。

ここで注目したいのは、「あまねく一切のものとともに」という部分です。つまり、「我と有情と同時成道」、自分が悟ることで、生きとし生けるすべての存在に、悟ることができる、その可能性があるのだと証明した、お釈迦様はそう宣言されているということです。
したがって、世田谷学園の根幹でもある「天上天下唯我独尊」というお釈迦様の言葉も、世間で誤解されているような「自分一人だけが偉い」という傲慢な意味ではありません。確かにこの言葉には、「この世の中で、私には私だけが持っているかけがえのない価値がある」という自覚が込められています。しかし、「唯我独尊」の「が我」、「われ我」とは、お釈迦様一人だけのことではなく、生きとし生けるすべての存在がそれぞれに持っている「私」を意味しています。これを学園では、仏教・禅の人間観として、「人は一人一人がかけがえのない尊い存在であり、誰もがりっぱな人間になることのできる力をもっている」と言っています。だから、「明日を見つめて、今をひたすらに」生きるのです。

お釈迦様も出家前には不安やおそれを抱いていました。しかし、不安やおそれは、とらわれれば勝手に増幅されていきます。それよりも、自らの尊厳性と可能性というかけがえのない価値、この宝の珠を磨いて、磨き続けて、光り輝かせることに力を尽くして生きて行く。困難や失敗があっても、不安にとらわれるのではなく、卑屈になるのではなく、これは自らのかけがえのない価値を磨くための人生からのプレゼントなのだ、そのくらいに思って、目の前の「今、ここ」に果敢に挑戦する。
成道会に因んで、自分自身にも尊厳性、可能性というかけがえのない価値があることを信じ、「明日をみつめて、今をひたすらに」逞しく生きていく、その勇気と気概をあらたにしてほしいと思います。