令和6年6月

昔から、死後の世界として、地獄や極楽が語られることがあります。こういう話があります。

ある男が、夢の中で地獄を見に行きました。するとちょうど食事時で、地獄だというのにテーブルの上には山海の珍味がどっさりと並んでいました。ところが、その周りに座っている人々はと言うと、皆、ガリガリにやせこけて、目はくぼみ、真っ青な顔をしていて、険悪な雰囲気で互いににらみ合っています。よく見ると、全員左手は椅子の背もたれにひもでしばられていて、右手には長いスプーンがやはりひもでくくりつけられています。スプーンの長さは1m以上もあり、遠くの料理もすくいとることができます。しかし、いざそれを食べようとすると、長さが仇となって自分の口に入れることができません。目の前にこんなにご馳走がありながら、永久に食べることができない。まさに地獄の苦しみだと男は思いました。
次に男は極楽を見に行きました。やはり食事時で、テーブルにご馳走が並んでいること、人々の左手が椅子の背もたれにしばられていること、右手には長いスプーンがくくりつけられていること、それらは地獄と同じでした。ところが、人々は皆ふくよかでその顔は幸せに満ちています。なぜ、同じ状況でありながら、人々の表情がこんなに違うのか。理由は簡単でした。彼らはお互いに食べさせ合っていたのです。
社会の仕組みは同じであっても、そこにいる人の心のありようや生活態度の如何によって、その社会は地獄にもなれば極楽にもなります。皆が、「オレが、オレが」という自己中心の我に執着し、自分の欲望や感情を満たそうとすることばかりに走ってもがき苦しむのが地獄、「どうぞ、どうぞ」と与える心、施す心にあふれ、「布施(ふせ)」が人々の間をめぐりめぐって、皆が生かされるのが極楽です。
布施とは、六波羅蜜(ろくはらみつ)の一つ目、見返りを求めず、慈悲の心、思いやりの心で、他のために自らの力を使うということです。

梅雨の時期が近づいてきましたが、地元の駅まで帰ってきたら、思いがけず大雨が降っていたという経験をしたことのある人もいると思います。これは、そんなときにある女性が目にした光景です。
駅の出口で、ある男性が傘がなくて立ち往生していると、そこに別の男性がやって来て、「どうぞ、この傘を使ってください」と一本のビニール傘を差し出したのだそうです。見ず知らずの人から譲られた傘だけれども、自分には迎えが来てくれるから大丈夫だということでした。すると、傘を受け取った男性は、近くにいた、やはり立ち往生していた男性に声をかけました。「傘を買おうと思っていたので、あの店まで一緒に行ってくださったら、あとはこの傘を使っていただけませんか」。
この光景を見ていた女性に、お世話になった方が亡くなったときの記憶がよみがえってきました。何も恩返しができなかったと嘆く女性に、お世話になった方のご家族はこう言われたそうです。「恩返しはほかの方に。それは社会の中でつながっていきますから」。

誰かからいただいた恩を、別の人に送ることを「恩送り」と言うことがありますが、恩を送るということは、布施がめぐりめぐっていくということです。それはお互いの心、そして社会のありようをも豊かにする力を持っています。お金やものだけなく、思いやりのある言葉や和やかな笑顔を送ることもまた素晴らしい布施です。布施は、誰でも、どんなときでも実践できるのです。

地獄や極楽は、死後の世界の話ではありません。生きているこの現実の世界にこそつくり出されます。そして、地獄と極楽のどちらがつくり出されるか、それはとりもなおさず、我々一人ひとりの心のありようや生活態度の如何にかかっているのです。

(「朝礼」より)