令和6年2月
ただ今、涅槃会(ねはんえ)の法要を執り行いました。涅槃会とは、古来2月15日とされているお釈迦様のご命日を偲ぶ法要です。
お釈迦様は35歳で悟りを開かれた後、それをご自分のものだけにとどめず、多くの人々の利益と幸福のために法を説く決意をされて、幾度となく伝道の旅をされています。
最後の旅は80歳のときでした。旅の途中、にわかに病を得たお釈迦様は、クシナガラという村で、とうとう動けなくなってしまいました。そして沙羅双樹の樹の下に横たわると、お弟子さんたちに見守られながら、永遠の静寂の中へ旅立たれたと伝えられています。
このお釈迦様が亡くなられたことを「涅槃」と言うのだと、一般には理解されています。
確かにそうではありますが、「涅槃」の語源であるサンスクリッド語の“nirvana(ニルヴァーナ)”という言葉には、「火を吹き消す」という意味があります。
お釈迦様は、人間の生活を「すべては燃えている」と表現されています。燃えさかる炎、それは「煩悩(ぼんのう)」です。
煩悩は「貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)」という三つの根本煩悩に整理されています。これを三つの毒、三毒と言います。貪はむさぼりの心、行きすぎた欲望のことです。瞋はいかりの心、癡はおろかさを意味します。人は兎角、自分勝手な欲望をむさぼり、思いどおりにならなければ勝手にいかり、歪んだものの見方をして道理にかなわないおろかなこともしてしまいます。そこに「苦しみ」が生じます。
この苦しみの原因となっている煩悩の炎を消し去ってしまえば、心は平安を得られます。「涅槃」とは、その状態のことを指しているのであって、つまりこれは悟りの状態です。ではなぜ、お釈迦様はすでに悟りを開いていたのに、亡くなられたことを改めて涅槃と言うのか。これをお釈迦様は「第一の矢」、「第二の矢」というたとえで示されています。
お釈迦様も我々と同じく「人」であって、当然、感覚、感情をもっていました。暑い、寒い、あるいは痛いと感じたり、花を見れば「美しい」、赤ちゃんを見れば「かわいい」、誰かが亡くなれば「悲しい」と思ったりしたはずです。これを「第一の矢」と言います。誰でも、この第一の矢は受けます。しかし、悟りを開いた人は、そのあとの「第二の矢」を受けることがありません。
第二の矢とは、たとえば、美しいと思った花を独り占めしようとしたり、それをとがめられていかったり、貪・瞋・癡の三毒が活発にはたらくことのたとえです。
お釈迦様は、35歳で悟りを開いて、この「第二の矢」を受けることがなくなりました。つまり、このとき涅槃の状態に至っています。そして、80歳で亡くなられて、「第一の矢」を受けることもなくなりました。そこで、これを「完全な涅槃」、「大般(だいはつ)涅槃」と言いますが、単に涅槃と言えば、この完全な涅槃を意味することも多いということです。
さて、以前、ダライ・ラマ法王が来校されたとき、ある生徒がこういう質問をしました。「生きていくうえで欲望はすべて断ち切るべきなのですか」。法王のお答えはこうでした。
「欲望には二つの種類がある。一つ目は、より執着の心と関連をもつ意味での欲望。これはたくさんの問題を引き起こすものなので、なくすべきだ。二つ目は、世界平和を望んだり悟りを得たいと思ったりする欲望。これは欲望を果たすということの正当性があるので、益々高めていく必要がある」
法王のおっしゃる一つ目の欲望とは、我欲、自己中心的な欲望のことです。この欲望に執着すると、貪・瞋・癡のはたらきが活発になってしまいます。あいつが気にくわないと思えば、その感情を満たすために相手の欠点ばかりを探しだし、その欠点に対していかり、それを相手にぶつけて深く傷つけてしまうこともあります。これは、相手に矢を放っているつもりが、自分自身も「第二の矢」の連射を受けるようなもので、相手も自分も苦しむことになります。
一方、法王のおっしゃる二つ目の欲望とは、「慈悲の心」に基づく願いや祈りであって、もはや欲望と訳すべきではないかもしれません。「慈悲」の「慈」は人に喜びをもたらすこと、「悲」は人の苦しみを取り除くことを意味しています。
ひとたび貪・瞋・癡の連鎖が始まると、その炎は知らず知らずの内に何倍にも増幅して燃えさかります。だから、意識してその炎を鎮め、慈悲の心を呼び覚まし、高めていく。毎日の生活の中で、そう努めていくことが大切になります。
先月の高祖降誕会で、「四摂法(ししょうぼう)」の話をしました。たとえ些細に思えることであっても、慈悲の心をはたらかせて、「布施(ふせ)」「愛語(あいご)」「利行(りぎょう)」「同事(どうじ)」の実践を重ねてほしいと思います。